紫紺の航空部(明大航空部公式ブログ) 航空部コラム

古銭から見る宝珠花の歴史

※この記事は以前Twitterに投稿していたものを編集したものになります。


〜宝珠花歴史再発見〜
当部の占有している滑走路からは思いもよらぬものが見つかることも。こちらの古銭、江戸時代生まれの方にはお馴染みの寛永通宝。
滑走路の整備の最中に川の中州にて発見されました。

・二匹目の泥鰌を狙う部員

この古銭は江戸時代の寛永13年(1636年)銅の生産量の増加に伴って鋳造され始め、明治30年(1897年)まで流通したと推定されるものです。
航空部の滑走路がある春日部市宝珠花から出て来るという事は少し歴史的意味合いを持ってくるようです。
なぜなら古き時代の「眠る」土地なのですから。

1957年、北葛飾郡庄和町(現春日部市)宝珠花の江戸川で一枚の二朱金が見つかり、それを発端に実に550両もの埋蔵金が掘り出されたという話もあり…。
ネット記事で取り上げられた情報で裏付けされる資料も見つかりませんでしたが、やはりこういった類の話には胸を躍らせられるというものです。

与太話から離れて周辺地域の歴史に目を向けていきましょう。
江戸時代以来、江戸川では帆掛舟が往来し舟運が発展。部の宿舎が建っている西宝珠花は、荷物の揚げ下ろし・船宿・呉服問屋などで栄えました。江戸から川をのぼってやって来た舟頭たちはここで休憩を取りがてら船の帆を干したのでしょう。

帆を干す場という呼び名がいつしか転訛し、ほうしゅばな、宝珠花という地名になったという説があります。


参考:『宝珠花今昔』庄和高校歴史地理部/『地名を歩く 36』讀賣新聞2007年5月12日(土曜日)朝刊

さて、地名の由来はもう一説あります。
江戸初期に江戸川の開削により形成された下総台地。その北側の台地を宝珠花支台と呼びます。東に江戸川が流れ、(航空部ランウェイのすぐ横ですね)

西には縄文海進期の海成層を主体に海退期の土砂の堆積によって形成された中川低地が広がるこの台地はその地理的特徴が由来し、榜示(ほうじゅ)…地の境界の意 + はな…大地の先端の意 =ほうじゅばな/宝珠花 という地名が付いたという説もあるようです。
画像:今昔マップon the web((C)谷 謙二)

鋭い方は既にピンと来ているのでは無いでしょうか。そう、ここには縄文時代の遺跡が多く残されています。

参考:『角川地名大辞典』角川書店
『精選版 日本国語大辞典』小学館
『春日部市埋蔵文化財発掘調査報告書20:埼玉県春日部市 神明貝塚総括報告書』春日部市教育委員会2018

明治大学航空部練習場という文字が右上に見えますでしょうか。丁度我々の宿舎の周辺は浅間下遺跡に位置しております。春日部市のホームページによりますと縄文時代・平安時代・近世の遺跡がここにあったようです。
詳しく知りたい方はこちらへ→saimaibun.or.jp/h23/198.htm

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